グループ展「私、他者、世界、生 現実を超える現実」(大阪・コンテンポラリーアートギャラリーZone)

■ 「私、他者、世界、生 ――現実を超える現実――」


会期:2016年12月10日~27日
会場:コンテンポラリーアートギャラリーZone(大阪・箕面)
出展作家:OKA(油画)/川崎瞳(ペン画)/松平莉奈(日本画)/松元悠(リトグラフ)/百合野美沙子(アクリル画)
キュレーター:京谷裕彰(詩人・批評家)

五人の女性作家が、それぞれ異なる生の現実をもとに、絵画という形式を通して「現実を超える現実」を探る展覧会。

【会場】
コンテンポラリーアートギャラリーZone(代表:中谷徹・中谷雅代)
〒563-0043 大阪府箕面市桜井2-10-5 阪急桜井市場内
http://www.art-gallery-zone.com/
https://www.facebook.com/ContemporaryArtGalleryZone/?fref=ts

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 超現実と実存 (キュレーター:京谷裕彰)

 〈私〉や〈他者〉を通じて〈世界〉を、あるいは〈世界〉から〈私〉や〈他者〉を知覚したり認識したりすることを通じて、人や人になぞらえられた影像を絵画に描出する行為は古今東西、広く行われていることであり、このような行為は無意識の領域に深く根ざしている。それだけに、感覚だけで了解できることもあれば、描画という行為や絵画における現象を読み解く行為を経なければ意味が浮かび上がらないこともある。
 本企画のタイトルは「私、他者、世界、生――現実を超える現実――」であるが、一人称〈私〉に続く言葉が人称を特定しない〈他者〉であるのは、自我を客観視する〈自己〉であるよりも前に、主体としての〈私〉であることが先立つのに対し、〈他者〉とは〈あなた〉であっても〈彼(女)〉であっても、〈誰〉であっても、〈私〉からは隔たった存在であることによる。ここに何を代入しようと自由なのだ。あるいは、偶然や必然がここに何かを代入する。それならば、〈他者〉とは人形や置物であってもいいどころか、人間や生物の影像である必要すらないかもしれない。

 ところで、日本語ではシュルレアリスム surréalisme(仏語)から派生した「シュール」という言葉が、非現実な、いわくいいがたいものを表す俗語として定着しているが、俗語化したことによってその潜勢力がスポイルされてしまった感がある。しかし一方でその軽さは、〈かろやかさ〉としてもあり、〈遊び〉心に浸透するものや刺激するものを指す言葉として感性になじみやすいものでもあった。それゆえ、ときに私たちの「軽薄さ」にもフォーカスされざるをえない。
 そのような俗語的なニュアンスとは違い、本来、シュルレアリスムとは非現実ではなく現実を超える現実、つまり〈強度の現実〉を志向する芸術思潮であるとされる。これはどういうことか。
 ここでは、身の周りに広がる、あるいは目の前の、いわゆる「現実」を超えてある、画面の中の現実のことをひとまず〈絵画における強度の現実〉とよぶことにしよう。
 そして〈絵画における強度の現実〉はどこまでも〈私〉と〈他者〉、あるいは〈私〉と〈世界〉との関わりのなかにあるため、〈実存〉をめぐる哲学の圏域と否応なく接している。〈実存〉とは事物存在とは異なり、本質に先立つ真実にして現実なる人間存在の独特のあり方、と一般には解説されているが、潜在意識の内奥の、その暗がりにあって人間の判断や行動をつかさどるもの、とするヤスパースやメルロ=ポンティの〈実存〉概念をとりわけ私は想定している。
 ところが、シュルレアリスムを〈実存〉という問題系において思考する議論はほとんど見受けられない。フランス現代思想において「実存主義」の立場からサルトルがブルトンを批判したことの残響を引きずっていることや、美術史が20世紀の出来事として整理していることにもよるだろうが、それよりも何よりも、シュルレアリスムを扱うとき、人はえてして客体として扱える距離を置くという態度を取りがちになる。なぜなら、実存に反照することへの恐れが、それを実存の問題として容易には扱えなくしてしまうという心理に起因するからだ。作品を鑑賞したり作品について語ったりする〈私たち〉が、他人事ではないと感じたり、無意識に跳ね返るものを感知して竦んでしまった経験は多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。
 だが、五感で感受するインスタレーションとは違い、作品と観者との間に適切な〈心的距離〉を確保しやすいことが絵画の特質であるという点は、シュルレアリスム絵画とて同じである。ただ、シュルレアリスム絵画には境界をゆさぶる力が顕著なため、関心を誘発しながらも最終的には接触させない(できない)距離を置くのがよい、とされるセオリー※をも、しばしばゆさぶってしまうのだ。しかし、それでもなお〈遊び〉や〈かろやかさ〉はシュルレアリスムの大きな魅力であり、押しつけがましさ、僭越さとは逆の方を向いている。
 だとすると、ここには絵画の本質に迫る重大な何かが潜んでいるのではないか。これをキュレーターからの問題提起として受け取っていただきたい。

 ともかく、見た目がそれっぽい、といったビジュアルがシュルレアリスムを条件付けているのでないことは、明言しておきたい。また、動きあるものを固定する箍をつねにすり抜けるため、定義付けにもなじまない。ゆえあって定義がなされるとしても、それはいつも仮のものにとどまらざるをえない。シュルレアリスムとは、その人のなかではいつでも始まり、いつでも終わり、そしていつでも何度でも再開するものである。参照項としても生き方の哲学としても。

 今回ここに集う女性作家たちは、シュルレアリスム(的)か否か、という自覚の有無にかかわらず、みな〈絵画における強度の現実〉を制作において実践している。曖昧なままに厳格な、何かを描いているのだ。
 ゆえに、作品が「シュルレアリスムか」「シュルレアリスムでないか」といったことは大した問題ではないばかりか、主眼はそこにはない。
 それぞれの作家の営為を通じて、〈絵画における強度の現実〉、そして〈実存〉について考え、すでにあるものとは異なる視点から世界を再考し、異なる視点へと私たちの問題意識の領野を広げる機会としたい。
 この展覧会の主眼はそこに(だけ)ある。

※cf.谷川渥「美的距離の現象学」(『美学の逆説』所収,2003年,ちくま学芸文庫)

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《キュレーター・プロフィール》
きょうたにひろあき。1972年、兵庫県生まれ。詩人、批評家。詩誌『紫陽』元編集発行人。詩誌『エウメニデスⅢ』同人。1990年代から歴史学、社会学、文学などを通じて様々なムーブメントにコミットし、ゼロ年代後半からは文学と美術を越境・往還しながら〈美学〉と〈政治〉をめぐる思索と実践を展開している。

出展作品(百合野美沙子)

うるさい
2016年 1640×1100mm パネルに綿布 アクリル絵具、墨

■ 百合野美沙子 出展作品に寄せて

本展「超現実と実存」では、五人の作家がそれぞれ異なる方法で〈現実〉や〈生〉と向き合っている。
私の作品もまた、アクリル絵具による絵画として、現実の出来事を起点に、そこから膨らむ目に見えない光景を描いている。

技法と素材

パネルに厚手の綿布を貼り、吸収性下地を六層以上に分けて塗布。
白亜(海の生物の堆積物)と膠(動物性タンパク質)を主成分とし、海と陸の生命の記憶を含んだ素材を用いている。
有色下地を何層も重ねることで柔らかな光を湛えた画面を作り出し、日本画的と評される質感を追求している。
下地の調合や塗布の厚みは気温や湿度で変化するため、今も研究を重ねている。

主題と構想

画面には、蛍光灯のもとに集まる虫と女の姿がある。
制作中に実際に出会った虫を観察し、記憶や図鑑をもとに描いた。
生きている虫は動きの残像を残すようにぼかし、死んだ虫は細部まで描き込むことで、生と死のあわいを表現している。
光に惹かれる虫たちと、自らの身体に光を宿しているように感じる自分――その共鳴が今回の作品の発端となった。

絵画観と制作姿勢

私の絵は、静止した画面の中で絵の具は動かないが、鑑賞者の心の中で動いてほしいと願っている。
虫たちの軌跡や淡い色調は、鑑賞者の想像を導くための「たより」である。
雨や光、飛ぶ虫のように形が一定でないものに惹かれ、そこに揺らぎや迷いを込めて描いている。
確信よりも手探りで、目に見えない感情や記憶を探りながら描く――それが今の自分の段階であり、次へつながる鍵だと感じている。